ueo6110r5's blog

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もうちょっとだけ「ゲーセン〜」の周辺について書きます

※気になる箇所に手を入れました。長くて読みにくい…文章の筋は変えていません。2012/01/25

fujiponさんと島国さんの話が続いてました。fujiponさんは言いたいことは述べたということでもう続かないと思いますが、おふたりのブログを見てもうちょっとだけ書いてみます。

fujiponさんのブログ:「アクマを ころして へいきなの?」
島国さんのブログ:実話のフリした嘘話にそれでいいじゃないかを、良しとしたくない理由。
fujiponさんのブログ:「ウソ」が大嫌いなインターネットの聖人たちへ
島国さんのブログ:嘘を真実として流通させる人たちと、俺がナニをしたかったか。

やっぱりかみ合ってない…と思いましたが、実は実は至極シンプルな話だったのではないか、という気がしてきたのです。

fujiponさんが言われているのは、誰かどこかに不利益が生じないことを前提に、グレーなものからでも何か得られるなら白黒つけずグレーなまま接してもいいじゃないか、グレーをゆるさない姿勢はネットを堅苦しくてつまらないものに変えてしまうよ、ということ。
島国さんが述べているのは、皆が皆嘘を見抜けるわけではない世の中は、腐ったミカンで箱のなかすべてのミカンがダメになることがあり得るように、誰かどこかに不利益が生じなくても、最低限のルールが守られなければネットは便所の落書きみたいなつまらないものに変わっちゃうよ、ということ。

…おふたりの論調、ベクトル違うようにみえてなにやら近しいものが感じられますが、いったん脇においておいて。

ここで極論であることを承知で、島国さんが危惧するところを推し進めて、嘘の書き込みを本当と信じて伝聞に伝聞を重ねて誰かが誰かを責めるような構造ができてしまう、そんな状況を考えてみます。それは、fujiponさんが書かれた「『スマイリーキクチ事件』から、何も学ぶことができなかった人々へ」へ重なるところがあるように思えますがどうでしょうか。いやもうホントに極論ですが。

ではなぜ極論に至らないかというと、「ゲーセン〜」では明らかな問題、そして被害者という存在・対象ないからです。(島国さんが言及されてましたが、まとめサイトはとても喜ばしいネタだったのではないかと)
だからこそだと思いますが、fujiponさんが許容する、本気で信じたとしても誰かどこかへ不利益が生じるわけではない他愛のない話に目くじらたてなくても…というスタンスと、島国さんのたとえそうであろうとも読み手の読解力や騒がれ方などに左右されないようにすべき…と考えはすれ違って交わりません。決め手に欠ける、と言っていいかもです。

けれど上で述べたように、おふたりはベクトルは違っても考え方は重なってるように見えるのです。

で、思ったのは、これって単に、「この話いいと思った」「この話いいと思えなかった」という人たちの応酬なのでは…ということでした。

好みの押し付けあいに収集つかないことは、それなりの大人であれば誰もが知ることだと思います。ではそういう場合どうやって決着をつけるかというと、客観的なデータなり影響力のある事例なりを引き合いに出して、どちらに説得力があるかを、変な言い方ですが競うわけです。「なるほど、確かに一理ある」と思わせられれば、決着がつくわけです。

つまるところ、そんな論戦だったのでは…と、思ってしまいました。
なんだか仲良しさんに見えさえします。

このように考えてきて思うのは、ネットではありとあらゆる人が、それぞれの「いいね!」を手を替え品を替え表現していて、さらにそれらに対して「いいね!」を表明する人とそうでない人がいて、尽きることなく続くのだなぁ…ということでした。
ひとむかし前であれば、個人の周囲でしか成立しなかったのやりとりが、広がった替わりに個人が個人としてとらえられなくなって、それゆえSNSという個人を固定できる場が求められて……。逸脱してしまいました。


最後に、自分の考えを述べると、フィクションであればフィクションを名乗るのは最低限のルールではないか、と思わずにはいられません。

実話というのは、それほどに話のハードルをさげてしまいます。
たまたまこれを書きながらNHK「ドラクロア」という、実体験を紹介する番組をみていました。実話となると、山なしオチなし意味なしの話でも(番組の話がそうだった、と言っているわけではありません)興味深くなるなぁ…と思うことしきりでした。

「事実は小説よりも奇なり」という有名な言葉は、「世の中の実際の出来事は、虚構である小説よりもかえって不思議である。英国の詩人、バイロンの言葉。(大辞泉)」という意味です。
けれど虚構というものはかなり窮屈なのです。虚構の話を面白くするには、丁寧なディテールの積み重ねが必要で、そうやって受け手の心を説得することでようやく感動のスイッチを押せるものです。少しでも手を抜くと説得性に欠け、「荒唐無稽」「雑」そして「リアリティに欠ける」などと言われてしまうものです。

最近は、既存の型に利用することで積み重ねを省略する作品が見受けられますが話がそれるので割愛して、とにもかくにも「実話です」というだけで、荒唐無稽な展開も「だってそうだったから」ご都合的な展開も「でもそうなったから」と言えて、受け取れる、そういう関係が成り立ってしまうので、やはりごまかしてはいけない事なのだと思います。

それに虚構かもしれないと思いつつ楽しめる読み手になるには、それなりのスキルが求められますが、途中まで読んで信じた人が最後に「釣りでした」という言葉をみて額然とする経験は、推奨されることではありませんが、スキルを身につけるための一助になるのではないでしょうか。

よって、フィクションをフィクションと宣言することに利はあっても害はなく、宣言しないことは利はあっても害もある、と思う次第です。

まとめきれているかわかりませんが、人の考えをさもわかったようにこうではないか?と書くのは、ここで止めます。
なんにしても、「ゲーセン〜」と取り巻く言説はとても興味深いものでした。