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震災から一年 気持ちの整理

▼2011年 一年前
あの日は会社にいて、仕事をしていました。
東京に来てから慣れっこになった、小さな地震とは違う揺れではあったものの、正直に言うと、それほど大きな地震とも思えなかった。
周りのざわつきに加え、ビルの放送で外へ避難誘導されたことで、近くのビルがぐらんぐらん揺れている様子をこの目で見て深刻さを意識し、家族に安否確認のメールをした。そんな体たらくでした。
それは1995年に体験した阪神大震災の揺れより、弱く感じていたからです。

▼1995年
その日は大阪の会社に居ました。明け方近く、翌日…というか当日の締め切りに間に合わせるべく、みんなで泊まり込んで仕事をしていたとき、前触れもなく振動がきたかと思うと床が波のように揺れたのです。
立っていられないほどの揺れ。同時にビルの電気は途絶え、代わって非常用停電装置が動き出したのであわててデータを保存。一息ついてから、いつも誰かしら休憩していた物置部屋を確認すると、機材がごろごろ落下していたけれど誰も寝ていなくて胸をなでおろし、暗がりの中、締め切りを気にしておずおずと仕事を再開しかけて、けど手がつかず…どうしたものか戸惑っていたのは、今にして思えば状況を理解できてなくて、なにをしれいいかわからなかったのです。けれど時間帯は夜明け前。なにかできた状況でもありませんでした。
リフレッシュルームでTVをつけてニュースを見ていた同僚の呼ぶ声で目の当たりにしたのは、真っ暗な闇の中で炎に包まれる工場地帯。誰となく、これはやばい…と口にして呆然として見ていました。
ようやく事態の深刻さに気がつきはしたものの、電話は不通。当時は携帯電話は普及し始めた頃で少なくとも自分のまわりに持っている人はなく、またメールは仕事で使っていても一般的に普及したものではなく、家族との連絡手段は…なかった。
夜が明け、刻一刻と深刻な状況がつまびらかになってゆく中、帰宅をと言われても、電車も動いてなく。それでも会社にとどまるわけにいかず、みんなとにかく会社をあとにしました。
さいわい大阪市内の被害はそれほどではなく、車は走り人は動いて…いたように思います。あんまり覚えてないのです。
ただどうやって家に帰るかを考えて、レンタカーに飛び込みました。実家は最も被害がでていそうな神戸にあり、その神戸への交通手段は電車も海沿いの道も閉ざされていたので、六甲の裏から回るルートなら行けるかもしれないと考えたのです。
レンタカー営業所では、大阪の友人に会いにいくとウソをついて、借りました。今にして思えば、ある程度わかった上で貸してくれたのかもしれない。気をつけて運転してくださいね、という言葉とともに借りた車で、大きく迂回して実家を目指し、43号線なら1時間ほどで着くところを、飛ばさないように走ったせいもありますが、途中道路ど真ん中の大きな岩を何度か目にしつつも5時間ほどかけて無事到着。
実家は特に被害らしい被害もなく、家族は無事でした。
そしてまた大きく迂回して大阪に戻り、会社でみんなの無事を確認し(家が壊れた人も居ましたが、当人はその日会社に居たので事なきを得ていた)、最終的に関西一円の親類縁者の無事を確認し、ゆっくりと日常へ戻っていったのです。

▼東京へ
地震のあと、いろいろあって東京の本社で働くことになり、一年前に至ります。
阪神のときよりは…なんて考えはその後のニュースで吹き飛び、情報を追いかけて真偽を調べ取捨選択を重ねてほとほと疲れたけれど、家族友人知人みな無事という幸運にめぐまれた。

▼2012年 東日本大震災の一年後
この書き物に、ていのいいオチはありません。
3月4日にNHKスペシャル「映像記録3.11」を視たとき、思ってもみなかったほど動揺しました。阪神大震災の闇の中の炎を思い出しました。
自分がここに居られるのは、幻なのかもしれない。募金とかしても、それをいいことに幸運にあまんじ、見て見ぬ振りをしていたからかもしれない、と。
けれど…。

今日目にした@NHK_PRさんのツイート。
「3月11日は悲しい日になりました。多くの方にとって、決して忘れることのできない日になるでしょう。でも、だからこそ、あえてツイートします。毎日が必ず何かの日です。だから今日が誕生日の皆さん、おめでとう!!だから今日が記念日の皆さん、おめでとう!!」

そうだ。少なくとも自分は、元気のない人より元気な人がいい。であれば、身に余る幸運を受け入れ、結果誰かに元気を少しでもおすそわけできれば幸いに思う。
今が幸せかと問われると、実はそうとは言い切れない諸事情も抱えているけれど、不幸かと問われると、そんなこともない。

こう書ける今を感謝しつつ、一年を経て、また一年を過ごそうと思い直しました。
そんな気持ちの整理の日記でした。