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とりとめなく、言葉にするという行為について

言葉にすることは、誰かになにかを伝える行為です。

(…こんな場末のブログで書くという行為は、わたし自身の考えを明瞭にするくらいのことでしかありませんが…)

可もなく不可もないことでは伝える意味がありません。
晴れた空の下、晴れてますね、と言っているに等しく言っても言わなくても変わりません。

もっとも、いまの気持ちを共有するという意味での「晴れてますね」は意味がありますよね。

なので杓子定規に決めつけられることでもありません。とかく、ひととの関係は自身だけで成立しないがゆえに単純にすみませんが…、言葉にする=伝えるということは、大きく分けて、相手への同調か反発になると思います。

問題は。

同調にせよ反発にせよ、伝えて意味がある(と当人が思っている)ことは、その内容に相手が納得できるできないは別にして、なんらかの影響が生じるはずです。

「だれがなんと言おうとあなたのしてきたことは意義がある。それは…」「おまえの考えは間違っている! なぜならば…」などなどなど、肯定か否定か、つまるところ、伝えたいこととは、そこにつきると思うのです。

(伝えた結果、なに言ってるのかさっぱりなんだけど?であれば、言い方がわるいか的外れか。もっとも、何を言うかより誰が言うかのほうが重いことは少なからずあるので、それもまた難しいところです。このあたり、言葉の限界っぽいところについては改めてふれてみたい題材です)

だからこそ言葉にするには勇気がいります。相手への影響を口実にして言葉にしないことも珍しいことではないでしょう。

肯定であれば、まだ伝えやすいような気がしますが、世の中100%の肯定というのはほとんど存在せず、なにかしら条件付きの場合が少なからずあるがゆえに、肯定もまた軽くできることではありません。

(それゆえ、それいいね!と素直に言える人はすごいと思います。似て非なる行為として”軽く“言う人もいますが…)


長々となにを言いたいかというと、やはり「言葉ありき」だと思うのです。
相手に影響のない言葉では意味がない。そして影響をなす言葉は、相手への一方通行ではなくひとしく自らに返ってきます。

シュレディンガーの猫
観測するまで可能性は固定されません。固定されることが望んだことと一致するかは別にして、ふたを開けなければ先へは進めません。そして、伝えた言葉でどのような影響を相手に及ぼすかは、はかり知れることではないので、よほど明らかに結果が見えるのではなければ、やはり言葉にしなければはじまらない…と思う今日この頃です。


言葉にするという行為は、重なり合った可能性を固定し、どのような結果であれ未来へと続く歩みにつながるのだと。


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すごく未整理。脳内たれながしですね。。。
言葉にしたことを正当化しようとしているようにも読めます;;;;;。